Dr.伊藤のひとりごと

厚生中央病院研修終了

厚生中央病院にもう少し残って勉強をしたかったが、外科教室の命令により次の研修に移らなければならなくなった。ここでは本当に色々なことを教わった。僕はここに勤務して初めて社会人として一歩を踏み出したような気がした。手術の基本も教わったし、仲間もできた。そして他の大学の先生とも付き合うことができた。今考えると、ここでの一番の収穫はK.H先生から教わった研修であった。彼は本当にまじめで堅物で、いくつになっても研究熱心な先生であった。彼は今でも僕の尊敬する先生のうちの一人である。先生は医師の句100選として句集「いのち(生命)」と「ちから(力)」をタンクロウ出版から出されている。常に心してきた外科医の心境として次の一句を歌っている。「鬼手仏心心技一如のメスの冴え」。

いつも仕事が終わるとすぐに若い愛妻の待っている家に変える先生が、僕の送別会をしてくれるというので目黒の板門店という焼肉屋に連れて行ってくれた。先生とそこで何を話したかははっきり覚えていないが、1次会の食事が終わって午後9時を過ぎていたが、珍しく先生は僕を自分の知っているお店に連れて行ってくれると誘ってくれた。いつもは先生が2次会に行くことはまずなかった。その日は12月のとても寒い夜であった。タクシーに乗って二人で六本木に向かった。先生の連れて行ってくれたお店は外人が多く集まるバーであった。日本人はほとんどおらず、会話はすべて英語であった。そういえば先生は50歳をこえても週1回英会話講師のスミスさんから英語を習っていたことを思い出した。先生はこれから英語が話せないと世界に通用しないと話してくれた。そのバーでの先生はとても生き生きして外人さんと英会話を楽しんでいた。僕はというと何も話せないし、内容を理解することもできなかった。それまで英語は僕の得意教科で大学受験の際に旺文社(今はその会社は無くなったみたいだ)の実力テストで99点と確か全国で9位?をとったことがあるというのが、あまり他のヒトには話したことがなかったが、唯一の自慢であった。今考えると100点でなく99点というのが僕らしいと思う。その僕が、会話が分からず、皆にいていけなかったのである。このときに自分はいつか海外に出て行くために英会話がある程度できないと世界に通用しないことをうすうす感じ取ったのだと思う。

そのお店を出たのが12時を回っていたと思う。二人で帰ろうと思ったが、この日はタクシーが全然捕まらなかった。二人は確か寒い中新橋に駅に歩いて向かって、品川でタクシーを拾うことにした。最終電車で品川に向かい、タクシーに乗ろうとしたが、そこもタクシー待ちの長蛇の列であった。家に着いたのが確か3時過ぎであった。家に着いたすぐ後に電話がなった。KH先生の奥様からであった。「夜分遅くすみません。うちの主人がまだ帰らないのですが、先生と一緒だとお聞きしたのですが、ご存知ありませんでしょうか」という電話であった。先生が奥様に電話もせずに夜遅く帰ることはなかったみたいで、本当に奥様が心配されたようであった。僕は奥様にお詫びを言って、大変お世話になったことを話し、先ほど別れて、もうすぐ自宅に着くはずであることを話して安心されたようであった。KH先生、本当にお世話になりました。先生は僕が自分が歩んできた小児外科医に将来なることを予感していたのかも知れない。今、先生は引退されてご病気とのことである。最近お会いしておらず、近く電話をしなければいけないと思っている。先生にはもっと長生きして欲しいと思っている。そして、うわさで聞いた若くて美人の奥様に一度お会いしたいものである。

さて、今度の研修は茨城県の阿見町にある東京医大霞ヶ浦病院の消化器外科である。うわさではココはやくざ軍団とのこと。恐ろしそうである。